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星に捧ぐ02


 人波に紛れて集会場の出口へ向かうアッテンボローの肩を、呼び声と共に叩く者があった。
 親しげな声の調子に振り返れば、士官学校の親交深い先輩であるヤン・ウェンリーのさらに先輩にあたるアレックス・キャゼルヌの些かくたびれた笑顔がある。
「キャゼルヌ少将、お疲れ様です」
「ああ、お疲れだよ、まったくな」
 冗談で紛らわすようにキャゼルヌは口の端を持ち上げたものの、顔には敗戦後の残務処理の疲労が色濃く浮かんでいた。慰霊祭に出席するため流石に髭は綺麗に剃っているが、目の下の隈の様子は明らかに寝不足で形成されたように見えるし、心なしか頬肉も落ちたようだ。
 アッテンボローより8つ年長のアレックス・キャゼルヌは、帝国領侵攻に関わる一連の作戦において後方主任参謀の地位にあったため、作戦に携わった高官の一員として慰霊祭では壇上に上る――つまり針の筵に立たされていたのだった。
 戦死者の遺族も列席する慰霊祭において、軍関係者の、とりわけ先の作戦司令部関係者に対する風当たりは強い。直接の加害者は帝国軍であるとはいえ、作戦運用の不備に対する糾弾は四方から叫ばれているし、家族を失った市民の恨みの矛先が最も身近で実体を持つ人々に向くのも不思議なことではなかった。
 総参謀長であったドワイト・グリーンヒル大将は風評通り義理堅く、作戦首脳部として敗戦の責を全うせんと慰霊祭に参加したが、今回の作戦の総司令官であったロボス元帥は、自宅謹慎で沙汰を待つという名目で欠席している有様だ。さすがに二千万人の戦死者を出すという不名誉に平然としていられるほど、面の皮が厚くなかったようだ。
「お前さんの仏頂面、壇上からよく見えたぞ。少将たるもの、そんなに腹の内側が顔に見えたんじゃ勤まらないぞ」
 キャゼルヌがさらにアッテンボローの肩を叩きながら何でもないことのように言ったが、その発言をとてもではないがアッテンボローは軽く聞き流すことができなかった。
「あいにく憎らしい面は生まれつきなんですよ。それより、なんです、その少将たるものって。まさか」
「そのまさかだ。まだ内定段階で大きな声で言い触らせないが、お前さんの昇進はほぼ決まっているらしいぞ。おめでとう、アッテンボロー少将」
 祝辞に対しても、アッテンボローは素直に喜ぶことなど到底不可能だった。
「俺がアムリッツァで何をしたって言うんです? ただ逃げ帰ってきただけって言うのに。第十艦隊は半数以上を失ってほぼ壊滅、司令官のウランフ提督も救えなかった俺が、昇進ですか」
「その辛くも生き残った半数をまとめて、戦線から離脱する際の退路を開いたのはお前さんなんだろう?」
 アッテンボローは、即座にキャゼルヌの言に反論する。
「離脱する艦隊の指揮をとれとの命令でしたから。それに第十艦隊の半数もの艦艇が逃げ切れたのは、ウランフ提督が最後尾で援護をしてくれていたからです。あの人は何も言わせずに殿を引き受けて……」
 そして乗艦とともに宇宙の藻屑となり、二度と戻ることはない。
 キャゼルヌは、聞き分けのない子供のように頭を振るアッテンボローを宥めるように言う。
「アッテンボロー、お前はすべきことをやった。ウランフ提督のことは残念だったが、お前も万能じゃない。先のことは見通せないし、全ての人間を救うこともできやしない。なまじお前は器用すぎて、なんでも人より上手くこなす質だから思い詰めてしまうんだ。悔やむなとは言わないが、第十艦隊の五割を生還させた褒美は有難く貰っておけ。階級はあっても損にはならん」
(そうだ、新米少尉じゃあるまいし、そんなことはわかってる)
 死の無慈悲さと時間の不可逆性など、士官学校を卒業してすぐに鼻面に叩きつけられた現実だ。次第に感覚が麻痺していくのか、死に対する悲しみの衝撃も慣れてしまえば日常の些細な出来事になる。
 実際のところ、敬愛する上官であったウランフの死さえ、頭の片隅では仕方ないことと受け入れている自分が確かに居る。そして死んだ者を踏み台にして生き残った己に対する、安堵感と嫌悪感の入り交じった妙な気分がアッテンボローを襲うことは、軍人となってから五年以上が経過した今では殆どなくなっていた。
 そう、彼は犠牲の多さに憤ったわけではなかったし、己が昇進に相応しくないと思っているのでもなかった。
(意味を…)
 アッテンボローは、我知らず唇を噛み締めた。
 意味を、アッテンボローは探してしまった。一体、自分は先の出兵で何をしたのだろう。あの戦いに、何の意味があったのだろうと。
 アムリッツァでの戦いが、先程の式典の最中に考えたとおり単にトリューニヒトの支持率上昇という政治的効果しかこの社会にもたらさなかったとすれば、二千万人の命は無駄に消費されたも同然ではないかと、アッテンボローには感じられてしまった。
 一体、民主主義とは何だろうか。自由惑星同盟軍は、二千万人もの犠牲を出して、一体なにを求めて戦っていたのだろうか。
 アッテンボローは思考を言語に変換しようとして、思い直して口を噤んだ。軍の高官や情報部将校がうろついている統合作戦本部内で、現役の将校たる自分が軍や政府を批判すれば、要注意人物のレッテルを貼られてしまう。内心がどうであれ、少なくとも己の立場と発言する内容、その場所くらいアッテンボローは弁えていた。
 結局、彼は台詞を無難なものに変更せざるをえなかった。
「ありがとうございます、キャゼルヌ先輩。先輩の仰る通りですね。すみません、なんだか愚痴ってしまって。ウランフ提督のことは、俺、けっこう尊敬してたもんですから珍しいことに少しナーバスになっているようです。昇進の件は、有難いことと思います。少将になれば分艦隊を指揮する権限が与えられますし、その分できることも増えるでしょうしね」
 ヤンとの付き合いと同じく、アッテンボローはキャゼルヌと士官学校の頃から付き合いがある。当時のアッテンボローと同じ士官候補生としてではなく、キャゼルヌは士官学校の事務官として配属されていたのだが、ヤン・ウェンリーという媒介を通じて対面して以来、舌鋒の鋭さを競うことと並行して両者の交友関係は大過なく続いていた。つまりは、アッテンボローと十年近くの親交を結ぶキャゼルヌは、恐らく彼の本音が別の場所にあることを見抜いていたのだ。
 キャゼルヌは僅かに眉間の皺を深くした後、場の空気を改めるように言った。
「ところで、俺はどうやら階級はそのままに辺境に左遷となることが確実なようでな。俺の辞令は恐らく明日中に出るから、夜はうちに来ないか。オルタンスの料理も食べ納めになるだろう。ヤンとユリアンも呼んでおく。少し酒でも一緒に飲みながら、俺との別れを惜しんでくれ」
 意図を汲んだアッテンボローは、有難くキャゼルヌの招待を受けることにした。ゆっくり家でこの続きを話そうと、キャゼルヌは言っているのだ。
「実は左遷されるのがあまりに辺境だと、夫人に何を言われるかわからないから、援軍として俺たちを招待するんじゃないでしょうね?」
 重苦しさを払うため、アッテンボローは努めて明るい声を出す。
「馬鹿野郎、お前たちの援護なんてオルタンスの前で、どれほど役に立つんだ。とはいえ、もしかしたら単身赴任を言い渡されたりしないかと、内心は戦々恐々なんだ」
「ついてきてくれって言えばいいじゃないですか」
「それだけで一緒に来てくれると思えるのは、お前がまだ結婚していないからだ。結婚してみろ。そうしたら、俺の恐れていることがわかる」
 大きく溜息を吐くキャゼルヌに、アッテンボローは声を上げて笑った。

 翌日、アッテンボローは約束通りキャゼルヌ家を訪れていた。
 夫人と二人の娘と共に四人で暮らすアレックス・キャゼルヌの官舎は、単身者のアッテンボローの家よりも随分広く、いつも温かな幸福という名の空気に満たされていた。時折キャゼルヌ家の夕食に呼ばれることがあったが、その度に結婚も悪くなさそうだと思ってしまうのは秘密だった。独身主義と嘯いている己の沽券に関わるからだ。
 約束の時間から5分遅れた17時35分にチャイムを押すと、キャゼルヌの二人の幼い娘達がアッテンボローを出迎えた。
「いらっしゃいませ、アッテンボローおにいちゃま」
「らっちゃい、まちぇ」
 長女のシャルロット・フィリスが行儀良く挨拶するのを、姉と仲良く手を繋いだ妹が真似ていて微笑ましい。
 アッテンボローは挨拶を返し、途中で買った苺のショートケーキをシャルロット・フィリスに手渡そうとしたが、以前に彼女がうっかり箱を落として大騒動になったことを思い出して自ら運ぶことにした。潰れたケーキを見て泣いてしまった少女達をあやすのには、それなりに苦労したのだ。
 シャルロット達に案内されてキッチンに顔を出すと、そこはまだ戦争中だった。
「ママー、アッテンボローのおにいちゃまが来たよ」
 鍋の前に陣取って手際よくフライを揚げていたオルタンスが、顔だけ振り返った。
「あら、いらっしゃい、アッテンボロー准将…じゃなかったわ、少将に昇進なさったんですってね、おめでとう」
「こんばんは、オルタンスさん。本日はお招きありがとうございます。これ、お土産のケーキです」
 夫人の戦闘の邪魔にならぬよう、アッテンボローは紙袋を戸棚の空いているスペースに置きながら、正確にはまだ少将となっていないことを説明した。
「それなら、あの人と違って辞令はまだ出てないのね」
「もうお話は?」
「さっき聞いたわ。五〇〇光年離れた第十三補給基地だそうよ。遠いわねー。不便な辺境航路だから、距離の割にハイネセンからは片道6日はかかるそうよ」
 顔を正面に戻したオルタンスは、油の中のポテトをかき混ぜつつ、まるで他人事のように語っている。この時点で、アッテンボローはオルタンス夫人の夫の運命を悟っていた。
「居間で早々とお酒を飲んでいるから、お付き合いしてあげてくれる? グラスも用意してあるわ。もう一方のお土産も、そのまま持っていってあげて」
 アッテンボローはキャゼルヌ家の真の支配者の声に従って、単身赴任が決定したアレックス・キャゼルヌの元へ赴いた。
「よお、来たな」
 キッチンからダイニング、そして居間へ抜けると、ソファに座ったキャゼルヌが一人でワイングラスを傾けていた。キャゼルヌはウィスキーを好むのだが、食前と言うことで軽めの酒を飲んでいるようだった。
「どうやら、ハイネセンから五〇〇光年の地に単身赴任が決まったようですから、早くもヤケ酒ですか?」
「オルタンスから聞いたか? 酒でも飲まなきゃやってられんよ」
 勧められるままキャゼルヌの向かいに腰を下ろしたアッテンボローは、手土産のシングル・モルトのウィスキーを差し出した。キャゼルヌが破顔して土産の選択眼を大いに褒める。
「ところで、ヤン先輩たちは、まだいらしてないんですね」
 グラスを受け取りつつ、アッテンボローは訊ねる。キャゼルヌは無言で白ワインを客に注いだ後、告げた。
「あいつらには、お前より一時間遅く来るよう伝えておいた」
 酒に口を付けようとしていたところで、アッテンボローは思わずキャゼルヌの顔を凝視した。
 普段からヤンを含めて酒席で日常の他愛ない愚痴を零すのが恒例だったので、ヤンを抜きにした形で話そうということが意外だったのである。ヤンもアムリッツァの最前線で戦闘に参加しているし、先の帝国領侵攻作戦に関して心情を共有するに相応しい面子のはずだ。
「どうやら、随分と真面目な話をするつもりのご様子で?」
「お前さんも昨日は真面目に愚痴ってたじゃないか。その話の続きということさ……あまり、ヤンには向いていない類の話だから、お前さんに伝えておきたいことがある」
 アッテンボローは、ひとまず酒を三口ほど飲み下した。少しは精神的な景気づけをしたい気分だった。きっと、それほど楽しい話というわけではないだろう。
 彼の正面でグラスを呷るキャゼルヌの顔も、愉快そうには全く見えなかった。
「今回の出兵はひどかった。概算で被害報告を聞いた時も思ったが、こうしてハイネセンに戻って、二千万を失った影響の大きさに改めて気付かされる」
「それは、俺たちのような軍人だけじゃなくて、市民達も戦争はこりごりって厭戦ムードが漂ってるってことを仰りたいんですか?」
「いいや。長く後方担当なんかしていると、何でも経済性や数字で計りたくなるものでな。思いついて予想してみたんだよ。戦死者への莫大な遺族年金、一時金を払ったら同盟の財政はどうなるか。被害艦艇数も洒落にならない数字だ。首都防衛で残された第一、第十一艦隊、七割が残ったヤンの第十三艦隊以外はほぼ壊滅。以前のような艦隊編制に戻すまで、どれほど金がかかるか」
 一応は高級士官に分類されるアッテンボローも、軍事費が政府財政を圧迫していることは理解している。だが、それはある程度までは仕方がないと思ってしまうのも、また兵達の命を預かる高級士官だからこそ思うのだった。金を惜しんで命を惜しまずというのは、愚の骨頂だ。
「まあ、このまま仮に第一から第十艦隊まで新たに編制しようと思えば、年間軍事予算が今の五十倍ぐらいにはなりそうですが、そうすると財政破綻ですね…だが、待てよ」
 言いつつ、彼は気付く。金が足りないだけでは、済みそうにない。
 キャゼルヌはアッテンボローの思いつきに同意するよう、小さく頷いた。
「その前に、人が足りなくなる。そこの冊子を見ると、よくわかる。まずアムリッツァ以前の軍の兵員数をまとめた表があるが、その次の頁はアムリッツァの損害を計上した後の数字。さらに次の頁にあるのは同盟全土の人口データだ。グラフの青部分が従軍している人間の数を示している。最後の頁には、アムリッツァで二千万人が失われたことで、いかに社会全体に経済的影響が出るかを分析したレポート。財政委員長のジョアン・レベロと人的資源委員長のホワン・ルイがまとめたものだ。あまりの損害に腹が立ってご丁寧にデータを馬鹿でも判るように見やすくまとめて、シトレ元帥やロボス元帥をはじめ、軍首脳部に送りつけてきたんだ」
 促されて手に取った冊子を捲ると、確かに惨憺たる自由惑星同盟の状況が明白だった。
 アムリッツァの敗戦で、20代から40代の人口を示すグラフが他の年代に比べて明らかに短くなっている。レポートには主要産業の分野別年代構成グラフもあるが、既に各分野とも10代以下と70代以上が少なくとも6割を占める有様だ。流通業に至っては、機械化が進んだ関係もあるだろうがなんと8割が子供と老人で動かしているという。
 アッテンボローは、我知らず呻いた。ここまでひどいという実感が、彼にはなかったのだ。
「わかるだろう、限界なんだよ。金はどうにかなっても、人間の数は急に増やせない。これで仮に、さらに二千万の兵を補充してみろ。いや、一千万でも構わない。どこから人を持ってくるかと言えば、残るは子供達しかない。よぼよぼの老人たちに訓練積ませるくらいなら、経済効率を考えて幼年層を使うのが合理的だ」
「いま後方にいる16、17歳の少年兵が、前線に出るって訳ですか」
「そして後方基地では、更に幼い少年兵の誕生さ」
 いつの間にか、彼の手の中のグラスは空になっていた。だがいつの間に飲んだのか、あまりの先行きの暗いデータの数々に、味わう余裕など無かった。
 キャゼルヌが酒をつぎ足しながら言う。
「これが我らが同盟の現状だ。お前さんも高級将校の一員として、軍の外に目を向ける視野を持って欲しい」
「それは…それは、わかりました」
「なんで俺に、って顔をしているな?」
 アッテンボローは言われ、己の頬を掴む。そのように一目で分かるほど、表情に気持ちが出てしまっているのだろうか。
 以前から軍費と社会の小難しい話をヤンを含めた三人の内輪話で交わす機会があったが、どちらかといえばこの手の話はアッテンボローよりヤンが詳しい。今更ながら、キャゼルヌの意図を計りかねているアッテンボローだった。
「先輩の伝えたいことって、俺に同盟のことをもっと考えろということですか?」
「それもある。だが、本題はここからだ」
 キャゼルヌはソファの背凭れから体を起こし、グラスを置いて両手を軽く組んだ。まるで祈る形のように。
「今の話でわかっただろうが、戦争を続けると碌な事にならない。あと数年はぎりぎり継続できても、十年は無理だ」
 普段は温厚なキャゼルヌの、気圧されるような迫力にアッテンボローは背筋を伸ばしていた。
「あくまで個人的な願望で現実味は薄いかも知れないが、俺は長くともあと五年で戦争を終わらせたい。いや、終わらせなければ、同盟領の社会と経済は健全性を失うだろう」
 アッテンボローはキャゼルヌの決意の重さに、改めてはっとさせられ息を呑んだ。
 戦争を終わらせる?
 俺が生まれる前から始まっていた、既に日常とさえなっていた戦争を?
「そのために、どうすればいいか」
 キャゼルヌが問うように言葉を句切ったのを受けて、アッテンボローは急速に脳を働かせた。答が出るまで、さほど時を要さなかった。
「帝国との戦争に勝つというのは、まず不可能でしょうね。短期的、局所的な戦闘での勝利は有り得ても、全体としての勝ち目は今回の大敗でほぼ消えた」
「そうだな。となれば、戦争終結のためには、和平交渉しかない。それも、できるだけ同盟政府が不利な条件を呑まされないで、民主主義を存続する形で。とはいえ、その辺の国家交渉レベル云々は、正直なところ俺には手が余る。そこで、手近なところから働きかけを形にしていくんだ」
「…具体的には?」
「ヤンを軍内で担ぐ」
 なかばアッテンボローの予想にあった答が戻ってきた。
 そう、終戦まで持っていこうとすれば政治劇を繰り広げなければならない。まずは手近な場所といえば、軍内で勢力を伸ばすということだ。そして軍権を掌握した暁には、政府に働きかける。その最初の第一歩の軍閥固めの旗印は、ヤン以外にいない。
 キャゼルヌは優秀な軍官僚として政治的な伝手も多くあったが、引き立ててくれていたシトレ元帥の失脚と今回の補給失敗のあおりをくらっての左遷で、影響力をこれ以上ひろげるのは難しい。そしてアッテンボローは、最年少将官として新進気鋭と言われてはいるが、今のところ人目を大いに惹きつける程の功績を立てた訳ではない。軍内の、特に実戦部隊での人望はあっても、人集めの宣伝塔としては物足りない。
 それに比べ、ヤンは軍の思惑もあってのことだったが、既にエル・ファシルの英雄、アスターテの英雄、イゼルローンの英雄として名を知られており、軍では不敗の名将として崇められ、民間人からの支持もある。担ぐのに、これ程うってつけの人物は他にいないのだ。
(途方もなく、難しい話かもしれないけどな…)
 口には出さず、アッテンボローは心の中で呟く。
「こうなっては幸か不幸かわからんが、このアムリッツァで軍上層部の勢力図がかなり塗り替えられた。ロボス元帥とシトレ元帥は辞任が決まっているし、総参謀長だったグリーンヒル大将の力も後退した。その中で、我らが輝けるヤン・ウェンリーの名声は不敗神話もあいまって高まるばかりだ」
「…道理で、この話をヤン先輩のいないところでしようという訳ですね。あの人、絶対に頷かないどころか嫌がるに決まってますから」
 簡単に予想がつく。嫌がって耳を塞ぐヤン・ウェンリーの姿が、目に浮かぶのだ。
「だが、我慢して貰おう。ヤンには申し訳ないが、あいつを担ぐしか、俺にはやりようがない」
 アッテンボローは、これまでの話を一通り聞いた上で、すぐに結論を出した。
 無論、自ら考えて至った答ではあるが、キャゼルヌと別の形になることはなかった。
「是非とも、そこを俺たち、という表現に訂正して頂きたいものです。俺たちは、ヤン先輩を担ぐしかない、そうですね? キャゼルヌ先輩」
 アッテンボローの意地の悪い笑みに、キャゼルヌは一瞬、驚いたような表情をしたあと満面の笑みを浮かべた。
「まさかこんなに簡単に頷かれるとは思っていなかった」
「思い切りがいいのは、遺伝なんです。やるとなったら、全力でヤン先輩を担がせて貰いますよ」
 二度とアムリッツァのような無意味な戦いはやりたくないし、同盟が滅びるのもアッテンボローは見たくなかった。慣れ親しんだ民主主義を捨てることなど考えられず、専制主義など反射的に叛乱の二文字が浮かぶほどなのだから。もしかしたらそれは教育による刷り込みの結果かもしれなかったが、生活の全ての場面にわたって皇帝を仰がねばならない世界など、彼は許容できそうになかった。
 同じ人間であるはずの皇帝を神の如く崇め奉り、すべては皇帝の意のままという社会体制など、アッテンボローは断固否定する。尊敬すべき相手も、己のすべきことも自分自身で決め、皇帝といえども容赦なく批判する。個人の尊厳より皇帝の威光が優先される社会など、くそくらえということだ。
 どんなに遠い道筋に思われても己の望みのために足掻いてみようというならば、恐らくはキャゼルヌの言うようにヤンを担ぐのが最善の道なのだ。
 キャゼルヌ家のチャイムが鳴った。時計を見れば、いつの間にか一時間が経過していた。鼻先にはオルタンス夫人が腕を振るった、美味しさの約束された料理の香りが漂っている。
「来たようだな」
「ええ」
 我らが旗印となるべき、ヤン・ウェンリーの到着である。
 アッテンボローとキャゼルヌは同時に立ち上がった。
「俺は、しばらく中央からは追い出されるし、すぐにヤンの近くには行ってやれん。お前さんは以前にヤンと組んだ実績もあるし、今後の再編でヤンの近くに置かれることになると思う。奴をよろしく頼む」
「わかりました。不肖ダスティ・アッテンボローめが、楽したがりのヤン・ウェンリーをどうにかその気にさせてみせましょう」
 二人は視線を合わせ、頷き、共犯者として固い握手を交わした。
 そして噴き出して大笑いしていたところを、シャルロットに案内されて顔を覗かせたヤンは不思議そうに見ていた。 


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