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Act02-26



 歌劇の演目は、古風な地球時代を舞台にした、政争に引き裂かれる男女の悲劇を歌ったものであった。
 マグダレーナのご招待の手前、内容を事前に学習して来場したであるが、舞台をゆっくり眺める気分には当然ならなかった。
 歌劇場で最も豪勢な貴賓室には、小さな半円のテーブルを囲むように天鵞絨を使った椅子が据えられ、周囲から見えない壁際には大きなソファセットまで置かれていた。
 グリューネワルト伯爵夫人を中央に、とヴェストパーレ男爵夫人は左右に分かれて腰を下ろした。少し離れた背後には、皇宮からアンネローゼに付き添う侍女や護衛らが控えており、大きな声で歓談という訳にはいかなかったが、楽団の序奏とともに密やかな会話も開幕する。
 互いの自己紹介は、ヴェストパーレ男爵夫人が買って出てくれた。
 着席したまま、胸に手を当て芝居がかった様子でマグダレーナが語る内容に、二人は小さく笑うことになった。
「こちら、後宮に咲く一凛の花、グリューネワルト伯爵夫人。趣味はケーキ作りと刺繍。政治には口を出さない御信条をお持ち。そしてこちらは、辺境のうら若き女領主、子爵夫人。趣味は食に関することなら何でも。規格外れのご夫人ゆえに宮殿で褒賞まで受け、いわゆる女性としての栄達には無関心。二人は互いの領分を侵さない。ほら、仲良くなれそうでしょう?」
「的確なご紹介にあずかり恐縮です、マグダレーナ様」
 が肩を竦める傍でアンネローゼは淑やかに微笑み、続くマグダレーナの歌劇に関する説明に耳を傾けている。本日のテノールの若き主役はどうやら彼女の愛人の一人であるらしく、歌の詳細よりも役者の姿かたちに関する注釈が多かったのは、御愛嬌というものだろう。序盤はマグダレーナの独壇場で、歌劇の聴きどころから役者の裏話、衣装や舞台芸術の出来映えを面白おかしく評論し、はアンネローゼとともに聞き入り笑い、相槌をうった。
「普通の御席ではお話を楽しみながら観劇という訳にもいきませんけれど、此方では感想を互いにすぐお伝えできて、また違った楽しみ方ができますわね」
 それぞれ、侍女の淹れてくれた紅茶やワインを嗜みながら、ある種、豪勢な時間のご相伴に子爵夫人も預かっている訳であるが、いつ重要な案件が降りかかってくるか心配なとしては、心休まらないのである。
 中盤に差し掛かった舞台の上では、群衆役の大勢が合唱を始めた。主役たちの独唱に比べれば、伴奏も含めて華々しい音量である。
 マグダレーナは失礼を詫びつつ、中座していた。それが配慮であると、貴賓室に残された伯爵夫人と子爵夫人はともに共通した見解をもっている。
 時が至り、グリューネワルト伯爵夫人は初めて、そっと穏やかな声音で――・フォン・子爵夫人の耳元へと語り掛けた。
「いつも、弟たちがお世話になっていると伺っております。二人と時折遊んでくださっているのは、子爵夫人で、違いありませんでしょうか」
 来ると覚悟していた問い掛けの第一声から、確信をもった台詞であることには諦念の気持ちとともに笑顔を向けた。
「ご存知でしたか。お恥ずかしい気持ちでしたので、これまで彼らにも私の名前を伏せていたのですが、グリューネワルト伯爵夫人のご慧眼には恐れ入ります」
 そもそもの本日のご招待に関するアンネローゼの働きかけからして、が嘘をつく余地などない。
 すぐに肯定を返した黒髪の子爵夫人をどう思ったのかのかは定かではないが、美貌の伯爵夫人はひとつ頷いて、再び密やかな声で囁く。
「私には、弟のほかに家族がおりません。父も先年亡くなりました。弟と共にいる幼馴染も、私にとっては大切な人です。失礼とは存じましたが、弟たちのいう、という貴族令嬢のことを調べました」
 曰く、姿形の記録はすぐに取れたが、アンネローゼが依頼した人間も尾行はうまくいかず、先日の式典で顔を見たことにより、ようやくの正体が明らかになったのだという。
(そりゃ心配ですよね)
 唐突に現れた貴族令嬢が、気まぐれに大事な弟たちを遊びに連れ回していると訊けば、相手の素性を知りたくもなるだろう。
 護衛カイルらの働きよ天晴と思う反面、としてはアンネローゼにどういった顔を向けるべきか悩ましいところである。
「お手間をおかけしました。私も多少、立場が複雑なもので、お二人とはそういった物事を抜きにして一緒に遊びたいと思っていただけなんです」
「二人とも、いつも楽しそうに遊んだ話をしていました。相手の身許がわからなくとも、そういった人付き合いもあるものかと、新鮮に感じました」
 アンネローゼの視線は、遠く舞台に注がれたままだった。しばし、沈黙が落ちた。
 群衆の歌が最高潮を迎えると、主役の男女が一方ずつ現れ、出会いの場面が描かれた。
 敵対し合う家柄。相手が誰と知らず街の中で知り合う若者たちが、友人たちとともに親しさを深めていく。
 初対面のでは、白皙の横顔から相手の感情を読み取ることは難しかった。
「心苦しいことですが、私のいまの立場でも難しさがあります。名高い子爵夫人であれば、なおのことかと思います。私の手には何もありませんが、せめて弟たちには怖いことがないようにと、心から祈るばかりの日々です」
 言葉を選ぶようゆっくりと、どちらかといえば、若き伯爵夫人は淡々と語りかけてきていた。
 数年間のラインハルトの遊び仲間は敵対者とは思われていない様子だったが、かといって何か目的があるのかもわからないということだろう。
 は背後の伯爵夫人のお目付け役に聞こえても構わないよう気を遣いながら、気持ちを伝えられるよう努める。としては当たり前のことながら、ラインハルトの大事な姉上の気分を害したくはないのである。
「グリューネワルト伯爵夫人は既にご存じかもしれませんが、私は十歳の折に爵位を預かることになりました。普段は勉強や政務ばかりで、なかなか同年代の友人と遊ぶ機会もありませんでした。そんな中、帝都オーディンでの散策中に偶然お会いした方達とお話をしていたら、私もとても良い気分になったのです。私は領星やフェザーン、オーディンを往来する生活ですので会う機会も沢山は持てませんでしたが、私が行きたい場所や、やってみたいことに私の我儘でお付き合い願ったのです。肩書や立場は私にはあまり関係がなく、彼らも恐らくは、私が何者であっても構わなかったのだと思います」
(これまでは、だろうけど)
 後宮に囲われた姉を取り戻すため皇帝の打倒を誓うようなラインハルトにとって、素性不明の貴族令嬢とのお遊びも幼年学校卒業までだろうと、にも想像できる。
 政争に巻き込まれつつある子爵夫人の身分では、彼らに累が及ぶ危険もありうる。事ここに至っては、アンネローゼの行動がなかったとしても、は同じ結論に辿り着いていた。
 こちらを窺うかのような蒼い瞳の憂慮に向けて、はあえて明るい口調で伝えた。
「ほんのひととき、そう、私が帝都を離れるまでもう一か月もないのですが、しばし過ぎれば互いに慮ることも、これからどうすべきかも、決めることになるでしょう。私にとっては、宣告の時が来たということですね。政務も私を放っておいてはくれません、なにせ陛下にお褒めを頂戴してしまいましたので遊ぶ時間もとれそうにありません」
子爵夫人のご尽力に、陛下も殊のほか、およろこびと伝え聞いております。私からも敬意を表します。どうか、お身体をいたわってお過ごしくださいね」
 互いに迂遠な物言いとなったが、も、ラインハルトの姉であるところのグリューネワルト伯爵夫人も意志が通じたという確信があった。
 名を告げる時はもうすぐで、その後の各自の判断を待ってくれとは伝え、アンネローゼはそれに同意した。
「お気遣いに感謝します。そうそう、伯爵夫人はお菓子作りがご趣味とのこと、器も色々ご用意があるとは思いますが、私の領地で染付した陶器もぜひお使いください」
 いずれ自由惑星同盟の英雄となるヤン・ウェンリーの父は古物商であり、地球時代の陶器を価値あるものとして扱っていたのを知るは、子爵領でいわゆる有田焼風の陶器の復活を試み、意匠は帝国風に寄せてはいるが絢爛豪華な絵皿を近年売り出していた。
 子爵夫人の社交に、グリューネワルト伯爵夫人が微笑んで頷く。
 ヴェストパーレ男爵夫人が、席に戻ってきた。
 舞台はしばらくすると、終盤を迎え、家の争いに巻き込まれた主役の男女のうち、女が命を落とし、男はその事実に落胆して病に斃れてしまう。墓標を前に平和を誓う貴族と民衆たち、という終幕であった。
「最終的に仲良くするなら、主役たちは命を落とす必要がなかったのでは?」
 帰宅の身支度をする傍ら、感想をこぼしたにマグダレーナが語る。
「その過程で美しい犠牲が必要だったという物語を歌った劇ですから。それを言ってしまうと、芸術的な話が終わってしまうのよねえ」
 歌劇観賞に現実の政治的解決思考しか持てないでいるに対し、けれど貴女のご意見はもっともなことと私も思うわ、と言ってくれるマグダレーナは懐が深い。
 グリューネワルト伯爵夫人は感想は零さず、素敵な時間をありがとうございました、と礼を告げた。
「どうぞ、フェザーンまでお気をつけてくださいね。子爵夫人のご壮健を祈っております」
「こちらこそ、同席に預かり光栄でした。本日の御礼を改めて贈らせてください。お菓子を載せる器を見繕います」
 食べ物の持ち込みは毒を警戒する宮殿でご法度なのは、貴族の常識なのである。
 アンネローゼはヴェストパーレ男爵夫人にも丁重な礼を告げ、静かに護衛らと共に去っていった。
「それで、お話は問題なくお済かしら」
「万事問題なく、と思います。これからは隠し立てするようなことでもないし、マグダレーナ様にはお伝えしておきますね」
 は自身が素性を隠し、アンネローゼの弟とその友人キルヒアイスと何度も遊んでいたことを打ち明けた。
 マグダレーナは、まあ、と開いた口を扇で抑えながら笑った。
「それは、グリューネワルト伯爵夫人も心配でしょうね。そんな関係があったなんて、この世の不思議って、ああ、楽しいこと」
「まだミューゼル様達にはお伝えしていないので、しばらく秘密にしておいてくださいね」
 の念押しに、含み笑いのヴェストパーレ男爵夫人は頷いた。
「フェザーンの土産話を楽しみにしているわ、子爵夫人。そうそう、薔薇のお庭のことは追って連絡致します」
「ヴェストパーレ男爵夫人、本日はご招待ありがとうございました。薔薇を生ける花瓶をマグダレーナ様には献上させていただきますので、これからしばらくは薔薇のお庭のこと、よろしくお願いいたします」
 女性同士では珍しいことながら、黒髪の男爵夫人と子爵夫人は互いに握手を交わし、それぞれ国立劇場を後にした。
 帰途の地上車の中で、は護衛組にアンネローゼの参席を告げておく。物々しい皇宮仕様の護衛や車列に、彼らもグリューネワルト伯爵夫人の到来を予想していたらしかった。皇族であればより厳重な警備であるので、後宮関連の人物、ベーネミュンデ伯爵夫人であれば劇場の表から大々的に登場するだろうから、ひっそり裏口に向かうのは状況的にもう一方の妾妃しかいない、ということである。
 子爵領の面々は既知であるが、ラインハルトとの邂逅を知らないルッツ少佐への解説をヘルツ少佐に頼み、は思索にふけった。
(どうやって、白状したら一番マシな状況になるのかな?)
 ラインハルトとキルヒアイスの幼年学校の卒業、そして会う約束は一週間後に迫っている。
 五年間も先延ばしにした問題だが、いよいよ時は近い、とは頭を抱えるのだった。


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