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細雪



 いつの間にか、耳に届く全ての音が絶えていた。
 もとより、この庵は喧騒から遠い。
 だが今は鳥の囀りも、草木揺れる音さえも聞こえず、一層の静寂に閉ざされている。まるで全ての時が流れを止めたかのように。この世に己自身しかいないかのような静けさが身を包む。
 伏していた目を開き、長く座していた身体を立ち上げた。
 縁側と内を隔てる障子を滑らせると、寒風が裾の隙間から入り込み、思わず吐いた息は白く凝った。
 見上げた頭上は薄墨の雲に覆われ、鼠色の天をしんしんと白いものが舞っている。切々と降る雪が家々の黒い瓦の上、庭に植わった木の枝に次第に白い幕を重ねていくだろう。そうして、やがて世界は真白に染まるはず。
 ときおり緩い風が吹き、その度に小さな雪片はひらひらと踊った。その一片を掴むように掌を差し出したのはどんな気紛れだったのだろう。捕えたそれは瞬きもせぬ内、掌に溶けて消え、ただ涙のような雫だけが残った。
 軽く、小さく、そして儚い純白の六花。

『このような雪を、細雪と呼ぶのよ』
 己を呼ばう声がする。
 同じように重さの無い身体で、小さく、そして儚く消えた人がいた。
 座った膝の温もりや、抱かれた腕の心地よさ、その顔立ちすらもう定かではない。朧な記憶の片隅で、桜と流水の薄紅色の着物の柄や、細く白かった指を思い出すのみの人。
 存在していたことさえ忘れながら、日々は駆け抜けて行った。
 彼女は己が幼い時分に世を去った。母と呼び、懐かしむにはあまりにも共に過ごした時は短すぎ、そうするほどの感傷に浸れる性質も持ち合わせていない。
 それなのに今、彼女の声が聞こえる不可思議な己自身に、己はしばし立ちすくむ。
『ごらんなさい。掌の上ですぐに溶けるでしょう? 小さな雪だから、ささめゆき。こまかに、まばらに降る雪』
 そう言って母は己のまだ小さな手をとる。
『ね?』
 掌に舞い降りたそれを、逃すまいと強く握った。そっと指を空けてみると、手にしたはずの白いものはどこにもなく、透明な水だけが零れ落ちた。
 掴んでも掴んでも次の瞬間には消え去ってしまい、幾度も飽かずに同じことを繰り返した。
 なぜなくなってしまうのだろう。これを掴まえて差し上げたいのに。この雫は雪に戻らないのだろうか。
 傍で母が笑う気配がする。
『細雪は儚いもの。消えた雪は元には戻らないものですよ、蒼紫。さあ、身体が冷えてしまうでしょう。早くこちらへおいでなさい。部屋へ戻り、火鉢に共にあたりましょう』
 差し出されたその手を疑いもなく握った己がいた。その手はやはり暖かく、そこには確かに安堵と、満ち足りた気持ちがあったはずだった。雪から護るように肩を抱いてくれた人の顔には、優しい微笑が浮かんでいた気もする。
 その冬も半ば、春を迎えることなく彼女は彼岸の人となった。その日も雪が降っていたように思う。彼女に教わった細雪が。
 臥した彼女の枕元、力なく投げ出された白い指を幼い己は握り締め、その冷たさに泣いた。


 伸べた手に残された雫もまた、冷たい。掌を傾けると、ぽつりとした水玉は皮膚を伝い、落ちていく。
 白いものの残した涙が伝った跡は、まるで想いの残滓のようでもあり、そしてその儚さに彼は消えていった者たちを思い出す。
 雪をこの手に留めることができないように、時の流れも、散った命も元に戻すことはできない。
 悔いることを何度繰り返せども、雫は雪に戻らない。
 いなくなった母の教えを、彼は胸の裡で繰り返す。
(戻らぬものなのだ)
 それを、認めたくなかった。
 心に抱いた念はいつしか形を変え、失われた者たちの手向けに捧げんとした花は醜い紅。修羅と呼ばれ奈落に落ち、裏を流離い続けた日々、執着、決闘、敗北、そしていまだ己は生き永らえている。
 己を呼ばう声がする。
 静寂の中に響く彼の声は、在りし日の母のそれではない。母はもういない。そして己に従った者たちもまた。
「蒼紫」
 しんと、音もなく降る白雪の中、門の傍らに赤の和傘を携えた女の姿が現れていた。
 応えを返さず立ち尽くす己に、彼女は僅かに笑んで歩む。
 縁側の手前で止まり、己の向けた視線の先を辿るように、彼女も向こうを見据えた。
 濃緑の松がかぶる白帽子、霞む町並み、そして寒さに浮かぶ吐息のあと。
「細雪ね。すぐに消えてしまう、小さな雪」
 母に似た小さな手で、しかし小さいだけではないその手で、彼女は一片の雪を掴む。先ほどの己のように。
 掌の雪片は言葉どおり、すでに形を失い揺れている。
「儚いものだ」
 呟くと、雪の軌跡を追っていた横顔がわずかに動き、瞳がこちらを見据える。
 まるで人のように、そう考える己の心を見透かすような目をしながら、手が伸ばされる。
 手と手が触れる。先刻、掌の上で雪が溶け消えたその手と、手が。
 寒さの中で触れ合う指先、縋るように掴んだ掌に伝わる確かな熱に、生きることを覚える。それは振り積む雪の冷たさの中でこその温もりだった。
 積み重ねた死に佇む己という存在。いまだ倦んだ熱を抱き続け、生き続ける体。
「それでも…」
 ここにあるものは消えたりしないのだと、繋いだ手を彼女は胸元へ導く。
 罪は消せず、失った者は戻らない。己は、己以外の何者にもなれない。逃げ出すことも許されない。
(だから今は)
 だから今は、いずれ迎える春を待ちながら、この暖かい手を握り締め、離さないでおこう。
 そして雫となった雪を忘れぬまま、その冷たさを胸に弔いの道を行こう。
 それが何よりの餞になることを信じて。 


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