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星に捧ぐ04



 モントバレーのカーメル通り2番地に慎ましやかな居を構えるアッテンボロー家は、夫婦二人と、娘三人、そして末の息子一人の六人家族だった。そのうち娘二人は既に結婚して姓を変えていたが、彼女たちが言うところの『可愛いダスティ』にとっては相変わらず姉であり、家族であることは変わらなかった。
 アッテンボローが帰省した日、アムリッツァ会戦から帰還した弟をねぎらうために、結婚に伴って家を出た姉たちは遠路はるばるアッテンボロー家の屋根の下に集い、そして食卓を囲んでいた。
「あんたが次は少将? なんか笑える」
「この前、昇進したばかりじゃなかったっけ? なんでそんなに大出世してるの? 上に気に入られてるの? これだから末っ子は上手いわよね。感謝しなさいよ、ダスティが世渡りが上手くなれたのは、私たちのお陰なんだから」
 次姉のベティのひどい言い草に、長姉のアメリアが頷きながら彼の背を軽く叩く。
 アッテンボローは現在、四方を天敵に包囲されていた。敵と言っても帝国軍と対峙する時のように戦闘を行うわけではないが、姉たちは目に見えぬ言葉の刃を操って末弟をしばしば『可愛がる』ので、彼としては分厚い防御陣を引くように身構えたくなるのだった。
「少将って50万人くらい指揮するんでしょう? 物凄く偉い人間のような気がしてたけど、そんな風に思えなくなったなあ」
 あんたが威張って命令してるところ想像できないし、と言って肩をすくめシュリンプのサラダを頬張るのは、彼とはもっとも歳近い姉であるクレアだった。彼女の発言に、アッテンボロー家における末っ子の立場の全てが表現されているといっても過言ではない。つまり、ダスティ・アッテンボローは姉たちに全く頭が上がらなかった。
「別に少将って肩書きなんて大したものじゃないし、偉い人間なんてことはないぞ。下が増えて責任が増えて、厄介事を担ぐ役になったってだけだ」
 そう胸を張って言い返したのは、彼ではなかった。さきほど帰宅した父パトリックが、香草で味付けしたチキンソテーを切り分けつつ弁舌振るっているのだ。父の意見に彼も概ね同意するが、他人に云われると少し納得がいかないのも事実である。兵役義務のある自由惑星同盟において軍人という職業の人間は珍しくはないが、厳格なピラミッド構造の軍隊組織の中で尉官以上の士官はおおよそ全体の20%しかおらず、将官に数えられるのはさらにほんの一握りなのだ。多少は希少性を主張してもよいのではないかと、アッテンボローは思う。
 だが言い返すと厄介な長広舌で更なる説法を頂戴することになりそうだったので、アッテンボローは内心の反論を好物のテリーヌを食べることで押さえつけた。
(相変わらず、こいつらには勝てそうにないよなぁ)
 アッテンボローは自身の舌鋒が、この家族によって研ぎ澄まされたことを疑っていない。何しろ口の達者な姉が三人もいて、それぞれアッテンボロー家の血筋なのか自己の主張を惜しまない性質であったので、ここにジャーナリストで更に言葉の扱い――曰く、批判的論説――を知る父を加えると、自然と言葉が洗練されていった次第だ。
 唯一母だけがアッテンボロー家で物静かな口調の人だったが、母も流石は父と大恋愛の末に長く連れ添っただけはあり、決して父や子供達の言葉の圧力に負けることはなかった。それどころか、どこかの先輩の一家のように、家中の真の権力者たる存在感が母にはあった。
 父パトリックは何度も職を変え、住む家を変え、さほど長期間に及ばなかったが無収入となることもあったのに、母は不動にして穏やかな笑顔をいつも浮かべていたのだ。気付けば失業手当給付の手続きや、引っ越しの段取りを魔法のように滞りなく済ませ、父の仕事がどうであれ家の中は常に万全の体制を維持していた。それでいて彼女は著名な作家でもあり、父に劣らぬほどの収入を得ている。アッテンボローが自身を省みるに、鋭い言語感覚は家族の会話で磨かれ、大胆な決断力と反骨精神は父から、そして物事に目端を利かせ円滑に進行させる調整力や冷静な判断力は母から受け継いだのではないかと思うことがあった。
「けれどダスティは同盟軍史上最年少で准将になったって、この前ちょっと騒がれてたじゃない。パトリックが全部追い払ってしまったけれど、うちにもインタビューの申し込みが沢山きたわ。少将になるってことは、もしかして最年少の少将になるんじゃないかしら?」
 頬に手を当てて首を傾げた母の静かな一言に、食卓に一瞬の沈黙が満ちた後、姉たちが彼を一斉に振り向き、異変を発見したかのように上から下までまじまじと見た。それほどに有能だったのかと言わんばかりの視線だ。
「信じられない」
「全然、そうは見えないけど?」
「そうしたら、また取材が来るかもね。インタビューされたらどうしよう、史上最年少提督のアッテンボロー少将のお姉様である、クレア・アッテンボローさんです、なーんて紹介されちゃうのかしら!」
 変な風に盛り上がる姉たちに、アッテンボローはつい本音を口にしていた。
「俺がこの歳で少将になることなんか、おこぼれに預かったに過ぎないんだ。ここんところ戦争続きで、そこに今回のアムリッツァだ。高級将校もばたばた戦死して、ポストが余ったんだ」
 アッテンボローの述べたことは一面の事実を含んでいたが、客観的に見るならば彼の言は謙遜に過ぎるというものだった。確かに、アッテンボローが士官学校を卒業してからというもの、自由惑星同盟と銀河帝国間の戦闘はこれまでの150年に渡って継続している戦争の歴史の中でもっとも衝突が激化した期間と言えた。それに伴って士官にも戦死者が相次いで繰り上げ昇進がもたらされる可能性は増加したが、彼の昇進はそれなりの実績を評価されてのものであるのは間違いなかった。
「この三年間だけ見ても、三度のイゼルローン侵攻作戦、ティアマトで二度の大規模会戦、それに半年前のアスターテ、そしてとどめのアムリッツァだ。人が足らないんだ。そうじゃなきゃ、俺みたいな若造が将官になるなんてありえなかった……人が、死にすぎたんだ」
 先日まで彼の上官だったウランフ中将や、作戦会議で話したこともあるチェン総参謀長の通信で見た間際の表情が走馬燈のように思い出された。
 俺は、彼らのように振る舞うことが果たしてできるのだろうか。部下を逃すために、自らを死地に向かわせることができるのだろうか―――俺はいずれ、彼らのような『立派な』死を迎えるのだろうか? 自由惑星同盟はどうなるのだろうか?
 慰霊祭の空虚さやキャゼルヌの言う同盟の危機的状況をずっと考えていたせいだろう、口を滑らせたと思った時には遅かった。
 先程とは全く質の違う沈黙が、家族の食卓を取り巻いている。温かだった家族の時間は、綻びから吹き込んだ寒々とした戦争の空気によって急速に冷却されつつあった。
 アッテンボローは後悔した。このようなことを、言うつもりはなかった。ただ家族との他愛ない会話で、笑って過ごしたかった。
 彼は、母や姉たちが慎重に日常を作り上げようと努力していることを知っていた。未帰還率七割超の戦争から戻った弟に荒んだ空気を忘れさせようと、彼女たちはあえて明るく振る舞っていたのだ。
 姉たちは先程までの陽気さが嘘のように俯き、または視線を逸らし、母の顔には悲しげな表情が浮かんでいる。パトリックが食事の手を止め、カトラリーを皿に下ろした。かちゃりと銀器と皿のぶつかり合う音が、笑い声の途絶えた空気に響く。
「悪い。少し、頭冷やしてくる」
 アッテンボローは豹変した雰囲気に居たたまれず立ち上がり、そう言い残して逃げるように食卓を離れた。

(馬鹿野郎が…)
 室内の薄明かりに照らされる庭先をとぼとぼ歩きながら、アッテンボローは己の不用意さを罵った。
 あのようなことは、言うべきではなかった。簡単に冗談交じりで流せばよかったのだ。いつものように、笑っていなければならなかった。
 母が丹精した草木の間を縫って、庭の真ん中に据えられた木のベンチに彼は腰掛けた。三年ほど前に帰省した際だっただろうか、母に頼まれて彼自身が泥にまみれながら設置した庭の憩い場だった。
 冬の気配が忍び寄る風に吹かれたまま、アッテンボローは微動だにせず項垂れていた。
 日常を演出しようとして気を遣ってみても、彼の身に沁みた戦争の陰は消えて無くなりはしなかった。それは恐らく彼だけではなく、家族の面々も同じようなものだろう。アムリッツァの二千万以前にも、アスターテで百五十万が、さらにそれ以前の出征の度に命を落とした者は多い。彼が知っているだけで、アッテンボロー家のあるカーメル通り沿いの家ではここ数年で十人以上の戦没者が出たという。穏やかなはずの街中にも、死は葬式や戦死の報といった形で溢れているのだ。温かな日常という舞台裏にあるのは、目を背けることが出来ない冷たい現実ばかりだ。
 何度か顔を合わせたことがあった姉クレアの恋人だったリックも、半年ほど前のアスターテ会戦で戦死していた。同じようにアスターテに出征して生き延びたアッテンボローは、恋人を失った姉と顔を合わせづらく帰省しなかった。姉は何も言わず彼の生還を喜んだし、実際にヴィジホンで話したときも何も言わなかったが、複雑な心中を思いやれば笑顔を作ることにも相応の心労があっただろう。
 もはや、家さえも彼を心から憩わせることはない。穏やかな気持ちとなる前に、危機感と焦燥が募る有様なのだ。ただ闇雲に帝国軍を撃ち落とし、生還したことに喜び再び戦場へ赴いていれば良いという立場ではいられなくなったのだ。それが昇進するということであり、キャゼルヌの共犯者になるということだった。仮に軍人を辞め、地位も誇りも投げ捨てて引っ込んでも、耳にしてしまった崩壊の足音は彼の背を追って逃しはしないだろう。
「ダスティ」
 彼の名を、静かな声が呼ぶ。
 顔も上げず返答もしない彼に、父パトリックはずかずかと大股に庭を横切って彼の前に立ち、頭からばさりと何かを被せた。
「ほれ。お前の上着。用意がいいだろう? なければ風邪をひくところだっただろう? お父様に感謝しろよ、ん?」
「……どうせ母さんに言われなきゃ、自分だけジャケット着てくるところだったんだろ」
「お前、何でわかるんだ? 超能力か?」
 アッテンボローは上着の陰で笑って、頭にひっかかったそれを素直に羽織った。晩秋の風は頭を冷やすだけでなく彼の体温まで容赦なく奪っていったので、有難い差し入れだった。軍人は身体が資本で健康管理も仕事の内であるし、風邪をひいている暇も今はない。
 彼が冷えた身体を断熱繊維でできた軽いジャンパーで包む間に、パトリックは彼の隣にどっかりと座った。その衝撃にベンチが悲鳴を上げる程だ。アッテンボローは大切に扱えと抗議したくなったが、しかし食卓の雰囲気をぶち壊して逃げた手前、いつものように遠慮無く言い合いをしようという気分にはならなかった。
 だから、口を開いたのは彼ではなく、やはり父の方であった。
「ダスティ、俺たちはどこへ向かって行くんだろうな?」
「……は?」
 何を言われるかと身構えていたところに、意味不明の問いかけである。彼はゆっくりと頭を巡らせて、意図を確認するよう父の顔をみやった。
 パトリックは彼の方を見ておらず、ベンチに背を預けて暗い夜空を仰いでいた。つられたように彼も頭上へ視線を巡らせるが、特に変哲もない空だった。ただ、ハイネセンに比べて灯りが乏しい街だからだろう、星はよく見える。
「結局行き着くところ、最後は”死”なんだろう。人は死ぬ。俺もお前も、エステルも、あのかしましい娘共も、いつか死ぬ。みーんな、死ぬ」
 そんなことは、死を職業として扱うアッテンボローはよく知っている。だから、あっさりと彼は言う。
「わかってる。いまんところ、その面子の中じゃ死ぬ可能性が最も高いのは俺だってこともな」
「そうだな。否定はしんよ。恐らく、戦争に行くお前が一番危ないんだろう」
「それで、親父はそんな当たり前のことを俺に言ってどうするんだ」
 アッテンボローの憎まれ口もパトリックは慣れたもので、少し顔を傾けて息子の方へ片目を瞑ってみせる。
「せっかちだな、少しは間ってものを考えろよ」
「このくそ寒い中で、親父の長い説教は聞きたくないんだ」
「そうか、それなら短く要点だけ、せっかちなダスティ坊やに語ってやろう」
 ガキ扱いするなと噛みつきたいところだが、恐らくは父にとって自らの心配事を家族の食卓でぶちまけてしまうような男は、確かに坊やに違いないのだろう。アッテンボローは口を噤んで、父の話を静かに聞こうと気を落ち着かせた。
 パトリックは上半身ごと息子へ向き直り、自身によく似た鉄灰色の瞳を見つめて静かに笑った。
「俺が言いたいことはだ。人はみな死へ辿り着く運命なら、その道中は笑ってた方がマシってことさ。泣いても笑っても終わりは決まっているなら、そこに辿り着くまで楽しくやった方がいいに決まっている。お前が暗い顔していたら、誰かが救われるということもない。いや、逆にお前につられて周りが不幸になる。だから、お前はどんなときでも笑って、憎まれ口をきいてろ」
「なにを…」
「ジャーナリストなんて仕事をやってれば、いやでもこの同盟の仕組みってものが見えてくるさ。政府は躍起になって取り繕うことに必死だが、先の出兵は失敗だった。アムリッツァ会戦は同盟の財政を圧迫させるばかりで、得られたものは何一つなかった。そんな戦いに行かされたお前が、素直に政府の上っ面の綺麗事を聞いて黙ってられる性格かどうかは、父親の俺はよくわかっている。文句の一つも言いたくなるだろう。次は少将になるんだ、それなりの重圧や心配事もあるだろう」
 アッテンボローは、拳を強く握った。その手の文句や心配事なら、尽きぬほど彼の内側に積み重なっている。アムリッツァのことは言うに及ばず、ヤンを担ぐこと、そしてトリューニヒトと手を結ぶこと、急激に悪化するであろう同盟内の経済、いつか再び開かれる帝国との戦端。
(俺に、いったい何ができる?)
 手の届く範囲はいったいどれほどのものだろう。口にすることは簡単な、けれど途方もなく遠い頂は、見上げるだけで心が折れてしまいそうになる。
「笑えるものなら、笑っているさ。簡単にできれば、さっきだってあんな、へまはしなかった」
「結構きてるな? 息子よ」
 言ってパトリックは、遠慮無い手つきでアッテンボローのもつれた毛糸のような髪をぐしゃぐしゃと撫でると言うより、かき混ぜた。
「やめろよ」
 首を逸らして父の手から逃れようとするアッテンボローに、パトリックは腕をさらに伸ばして息子の首ごと抱え込む。
「そんなお前に魔法の呪文を授けてやる」
「放せよ、なんだよ、そのうさんくさい魔法の呪文って」
 27歳の男に、50を越えた父親がするスキンシップとしては密着しすぎている。ホールドを外そうと、もがく彼の鼻先にパトリックの人差し指が突きつけられた。
「ずばり、それがどうした、と言うんだ」
「はあ?」
「それがどうした、俺は笑ってやる。それがどうした、俺はやりたいようにやる。それがどうした、俺は幸せだ。そう言って、生きていけよ。少なくとも俺は、今までそうやってやってきて、実際にいつでも笑って、やりたいようにやって、幸せだ」
 ようやくパトリックの腕を振り払ったアッテンボローは荒く息を吐きながら、人差し指を魔法の杖のようにくるくる回す父の正気を疑った。そんな屁理屈で納得できるほど、ことは簡単ではないのだ。
「そんなこと唱えただけで、何かが解決するわけないだろ! 実際に何も変わりやしない!」
「しかし、何かを解決するために動こうという気分にはなる。へこたれそうで、何もかも捨てちまいたい時にも、それがどうしたって思えば良いんだ。実際の行動は、その次に起こすもんだし、その言葉が起こすための力になる。鬱々として、泣いて、悩んでたって何も変わらない。だから、それがどうした、と唱える。そして笑っていれば、大概のことはどうにかなるような気になる。ま、その後の行動に伴う苦労はあるだろうがな」
 アッテンボローは唇を噛み締めながら父の言葉を最後まで聞いたあと、頭を強く振りながら言った。
「同盟のお先は真っ暗だ!」
「それがどうした」
「兵員の補充もままならなくて、次の会戦は帝国の奴らに袋叩きにされるかもしれない」
「それがどうした」
「母さんや、親父達も今のように暮らしていけなくなるかもしれない」
「それがどうした」
「俺も、死ぬだろう」
 今すぐという訳ではないだろう。しかし、次に帝国軍の侵攻があれば恐らく彼は最前線で敵前に身を晒すことになる。死が怖いのではない。自分が消えた後、目の前にいる父や家族はどうなってしまうのだろうと、自らの手が及ばなくなることが怖い。
「…それがどうした。人はいずれみな死ぬ。そうだ、それがどうした。例え明日お前が死ぬとしても、いま泣き喚く理由にはならない。だから今日は笑え。歌え。楽しめ。幸せに生きろ。死ぬ前に、とことん自分のやりたいことをやってみせろ」
 口を噤んで顔を歪めるアッテンボローの正面には、これまでに見たこともないほど真摯な表情の父がいた。父は、本気で言っているのだ。
「今のお前にできることは、エステルの作った料理が残ったテーブルについて、腹一杯食って、笑ってることだ」
 頬を突き刺す冷たい夜風に、握りしめた指先が凍えていた。
 何を言えばいいのか、何を言いたかったのかわからない。何を悩んでいたのだろうか。
(やる前に怯えて、できるかどうか判らないのが不安で、ただ震えてたんだ)
 パトリックは立ち上がり、息子に手を差し伸べることはせずゆっくりと明るい家の戸口へ向かっていく。その背を視線で追うと、よくよく見れば戸口にはいつの間にか母が心配そうな表情で立っており、その横の窓には三つの頭が連なっている。
 彼の座るベンチと、母の待つ扉のちょうど中間あたりでパトリックは立ち止まる。まるでアッテンボローが追い掛けてくるのを待つかのような仕草で、振り返りはせずに、ただ彼の名を呼んだ。
「ダスティ」
「……なんだよ」
 素直に、はい、と答えられないのがアッテンボローとパトリックの常だった。
 けれどもアッテンボローは立ち上がり、数歩の距離を追って父の隣に並んだ。家族全員監視の中で、庭先で一人座っているのも格好がつかないし、いい加減に頭も冷えていた。心の底から納得も、心配事が消えることはないが、意地を張って寒い庭先で解決できることなど何もない。
「どうしたんだよ、親父。突っ立ったままで」
 彼が追いついたというのに動き出さない父に怪訝な目を向けると、パトリックは明後日の方向へ顔をそらして、宣言するかのように急に声を張った。
「俺はお前が生きて帰ってくりゃ、それだけでいいとは思わない。俺の望みはな、その上でお前が幸せになることだ。だが、幸せになるためにはとにかく生きてなきゃならん。それに、お前が死ぬと俺が不幸になる。エステルも、アメリアも、ベティも、クレアもだ。もっと沢山不幸になる奴がいるかもな。だから、お前はみんなの為に幸せになれ。わかるか、差し引きプラスでめでたしのために、お前はお前の幸せに身をやつせ!」
「な、んだよ、それ……」
 アッテンボローは、唖然とした。この論法は、いつか彼が士官学校に入学させられる羽目になった時と同じものではないだろうか? それに、なんという気恥ずかしい台詞だろう。皮肉や憎まれ口が得意な父とは思えぬほど、大上段からの直截な慰めのようである。
 パトリックは言い捨て、彼を残して大股で歩いて家の中へ消えた。一部始終を見ていた母が戸口の階段から降りてきて、アッテンボローを迎える。
「恥ずかしいのね。パトリックったら」
 それは彼も同じである。まるでドラマのような場面だったと、アッテンボローは辟易しつつ、けれど嫌な気分は全くしなかった。
「さ、ダスティ、冷えたでしょう? まだ沢山ご飯はあるから、もっと食べて頂戴。それに、ちょっとした準備もしてあるんですから」
「準備?」
 父の不意打ちに毒気を抜かれてしまったアッテンボローは、母に連れられるまま食卓へ戻った。
 そして再びの不意打ちに、彼の中にあった同盟の未来とか、トリューニヒトに対する政治工作といった懸念のわだかまりは、一時的であろうともかき消えていったのだった。
「誕生日おめでとう! ダスティ!」
 彼の好きなフルーツタルトには蝋燭が立てられ、それを囲むように立つ姉たちと父がクラッカーを鳴らした。飛び出した色紙が、彼の肩と言わず頭をも華やかに飾り付ける。癖毛であるから、後で取るのが大変かもしれなかった。
「途中で出て行っちゃうから、どうしようかと思ったわよ」
 アメリアが肩をすくめる傍で、ベティはアッテンボローの手を取って冷たさに顔をしかめて言いつつ、ケーキの正面へと導いた。
「色々とあるけれど、とにかくお誕生日おめでとう。27だっけ? 28? まあどっちでもいいわ、私より若いんだもの」
 クレアが部屋の灯りを消すために、スイッチに手を掛けている。
「誕生日が近いから、ちょっと早いけど、お祝いしようって話になったのよ。驚いた?」
「こうしてお祝いができるだけで、今は幸せな気分だわ。私の可愛い坊や」
「俺も幸せだぞー、可愛い坊や」
 立ち尽くす彼に微笑みかける人々の顔を、アッテンボローは一生忘れたりはしないと思う。たとえ明日死ぬのだとしても、彼は幸せとは何かという答を胸に抱いたまま死ねるだろう。
「消すわよ」
 部屋の中には、小さな蝋燭の放つオレンジ色の火が揺れている。彼を祝うために、家族が声を揃えて歌った。
 さざなみのように終わるメロディに合わせて、彼は祈りと決意を込めて灯火を吹き消した。
 何があろうとも、この先この人たちに、幸せが訪れますように、と。そのために、俺はとことんまであがいてやろう、と。



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