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 漆黒の海に揺らぐ光点は恒星バーミリオンの放つエネルギーを反射しつつ、星とみまごうほどに煌めいていた。しかし星と違って整然と列を成す光点の一つ一つは、戦争に勝利するという不毛な使命を帯びた人工物であった。
 底深い泥沼のような眠りから目覚めた彼を、4万隻もの帝国軍の艦艇群が取り囲んでいる。あまり目にすることがない、いや、目にすれば死へのゴールを約束されているがごとき光景である。しかし幸いなことに帝国軍の艦砲が憎悪を込めた荷電粒子や中性子ビームを吐くことはなく、アッテンボローは艦橋のメインスクリーンを埋め尽くす敵艦の群れを、一幅の宇宙画のように堪能することができた。
「壮観すぎて、涙が出そうだ」
 全く感激した様子もない声音を、分艦隊主任参謀のラオ大佐の耳が捉える。若き分艦隊司令官は独語したようだったが、彼は相槌を打って手元のカップを差し出した。
「確かに壮観ですね、閣下。お目覚めはいかがですか?」
「最悪を突き抜けたからか、逆に最高な気もする」
 礼を言ってアッテンボローはコーヒーを受け取り、言葉を裏切るやさぐれた表情で吐き捨てた。久々に死への恐怖なしに充分な睡眠をとったことで彼の顔色は良くなっていたが、機嫌の方は到底良いとは言えなかった。
 ラオは普段から下がっている眉尻の角度を一層下げて、素行の悪い不良少年のように指揮卓の上に足を載せて座るアッテンボローの傍に控える。表面上は沈黙したまま渋面でコーヒーを飲む上官の鬱憤が全く晴れていないことを悟ってか、ラオもしばらくは無言だった。
 アッテンボローの内部では、いまだ戦闘の残滓が嵐のように吹き荒れている。
 バーミリオン会戦。後にそう呼ばれることになる12日間にわたる死闘を、つい20時間前までアッテンボローらは戦っていた。
 それはフェザーン回廊を侵攻してきた帝国軍を、同盟領の水際で防ぐために挑んだ最終決戦であった。正確にはバーミリオン星系は既に自由惑星同盟領内であるが、バーミリオンを突破されれば帝国軍の鼻先には無防備な有人惑星が広がり、首都星ハイネセンへの到達を阻止することができない状況であった。そうなれば自由惑星同盟に残された道は無条件降伏の他なく、そのような状況に甘んじないために、圧倒的な不利の下であれ同盟軍は帝国軍に吼えかかったのだ。
 会戦には様々な局面があったが、終わりを迎える直前の戦況は分艦隊を指揮するアッテンボローの胸を沸かせ、意気を揚げこそすれ落胆させるものではなかった。あの時の同盟軍はたとえ戦術的なものでしかなくとも――いや、全ての戦略的不利をも大逆転させるだけの意義のある、戦術的勝利に王手をかけていた。
 ラインハルト・フォン・ローエングラムの策を看破したヤン・ウェンリーは、帝国軍の総大将といえるローエングラム候の乗る旗艦ブリュンヒルトを撃ち落とす一歩手前にまで到達していたのだ。
 ブリュンヒルトを撃破すれば、旗印を失った帝国軍は撤退せざるをえない。全権を掌握していたトップを失った帝国は再び混乱の坩堝に落ち、その間に同盟は国力回復の端緒を掴むことができる、そのはずだった。
 アッテンボローの指揮する分艦隊の目前には、白亜に輝く船へ続く道が開かれていた。そして、彼がまさにその道をエネルギーの奔流で満たそうとしたその時、突如として停戦命令がもたらされたのだった。
(撃てば良かったんだ。あと五分、いや、三分あれば、ローエングラムの奴を沈められていたかもしれない)
 そうすれば、このように敵軍に囲まれていじけた気分でコーヒーを飲んでいるのは、帝国軍の奴らだったはずだ。
 諦めが悪いと自分でも感じるが、それでも大魚を目前で逸した悔しさにアッテンボローはいくら悪態を吐いても納まりそうになかった。悔しさだけでなく、自らの保身に走り理不尽に過ぎる決定を前線へ伝えてきた自由惑星同盟政府の首脳―――トリューニヒトに対しての憤りも尽きそうにない。
(くそっ)
 そして正直に言えば、その理不尽な命令を受諾してしまった『我らがヤン・ウェンリー』に対しても、アッテンボローは多少の隔意を抱かざるをえない心境だった。

 停戦命令が前線へ届けられてすぐ、ヤンは戦線を維持しつつ麾下の諸提督を集めヒューベリオンにて会議を開いた。分艦隊司令たるアッテンボロー中将も、参謀のラオに後をまかせて戦場を連絡艇で潜り抜け、ヤンの下へ参じた。
 無論のこと、アッテンボローはヤンが政府の命令に首肯するつもりであれば、食ってかかる気でいた。いくら親交篤く恩もある先輩であり、旗印として担ぐと決めたヤンといえど、譲れぬものがある。
 いまヤンが帝国軍への停戦申し込めば、自由惑星同盟に残された道は銀河帝国の属領の地位に甘んじることになる。最悪の状況へ想像を馳せれば、市民達の主権は奪われて、建国の父アーレ・ハイネセンがそうであったように、ただ帝国に搾取される奴隷のごとく扱われるかもしれなかった。
 だがローエングラム候を敗死へ追い込めば、自由惑星同盟はそのような実質的な体制の死と苦痛を免れうるのだ。逆襲に燃える帝国軍の一派が、ハイネセンを核融合弾によって焦土とせしめる可能性もある。しかし帝国本土からの長駆によって補給線は限界まで延ばされ、ローエングラム候の後継者もいない帝国軍は長期的な作戦行動を取る余地がなく、撤退するしかないのだ。
 自由惑星同盟の首都機能が仮に失われたとしても、自由惑星同盟が滅亡するわけでもなく、民主主義の大樹も満身創痍とはいえ斃れることはない。
 何のために、戦ってきたのか。何のために、戦うのか。
 かつて自由惑星同盟がその国民に求めた専制主義打倒の代償、尊き個人の生命をあれほどに費やしたのは、何のためだったのか。
 家族のためであり、自由惑星同盟のため、そして民主主義――ひいては自立した個人の主権や幸福を追求するためとアッテンボローは考えるが、彼の考えとは違った答もあるだろう。だが決して、無能な政治家どもや反吐の出る、くそったれトリューニヒトの地位や安全のためだけではなかったはずだと、彼は信じていた。だからこそ、選ぶべき方策は一つしかないと、停戦の話を聞いた直後の彼は思っていた。
 惑星ハイネセンに居るであろう家族のことも、アッテンボローは考えた。
 ハイネセンを包囲する帝国軍が自棄になれば、モントバレーは消滅するかもしれない。
 睡眠不足と、祖国の滅亡間際で戦線を預かる重圧と、勝利への一縷の希望、そして家族に忍び寄る影。
 蹲って喚き出したくなる弱気を、アッテンボローは持ち前の反骨心で押さえつけた。ハイネセンへの攻撃はまだ行われていない。ならば、まだ成せることはある。
 絶望する前に、彼は必死でローエングラム候を退けた後の状況を脳裏に描き、計算を積み上げていった。敵将のロイエンタールやミッターマイヤーという帝国の双璧は誇り高い将と聞く。破れかぶれになって、無辜の市民を犠牲にすることなどない。ハイネセンを包囲する帝国軍にローエングラム候敗死の報が届く前に到達すれば。どうにかしてハイネセンから引き離せば。そのように、アッテンボローは思うしかない。
 連日連夜の戦闘指揮の疲れを苛立ちで紛らわせ、憤然とヒューベリオンに降り立ったアッテンボローは足音も荒く艦橋へと向かっていく。
 ヤンの考えそうなことは、アッテンボローにも想像できる。きっとあの人は停戦命令を受け入れる。そのような確信が、彼にはあった。付き合いは長く、彼の人の性格を彼は把握している。だから彼は、ヤンが何を思い政府の停戦命令を呑んだかを、まさしく想像することができた。しかし想像し、理解できるからといって、納得できるかどうかといえば別なのだ。
「自由惑星同盟軍などと格好良い名前はつけてはいるが、それも本来的には暴力にすぎない。ただ法的な後ろ盾を得ているだけの、ね。だからこそ、軍隊は文民統制の原則を常に守らなければいけない。単なる野蛮な暴力に成り下がらないために、制御されなければならないんだ。形としては文民、つまり政府の制御だが、それはつまり市民の制御を受け付けるということだよ」
 そのように、ヤンはいつであったか酒席でアッテンボローに真面目な顔をして説いたことがある。そう、あれは自由惑星同盟史上で初めて軍事クーデターが起きた時のことだった。ヤンは、政府の統制下にない軍隊など、民主主義社会において存在意義を持たないとすら言った。ただ軍隊は、武器を持たぬ市民を守るためにだけあるべきだと。
 軍人は文民統制を受けるべきという原則は、民主主義の理念に確かに沿ったものであるだろう。しかし、額縁をいくら拝んだとて人は救われない。理念の実践には時に妥協も必要ではないのかと、アッテンボローは思うのだ。
(それに、今度ばかりは市民にも多少目を瞑ってもらえるぜ、ローエングラム候を倒してしまえば、間違いなく歓喜をもって迎えられるんだからな!)
 形式を尊重するか、実利をとるか。前者を選択すれば、自由惑星同盟には隷属の枷が嵌められ、後者をとれば民主主義の名に傷がつく。だが、自由を失うことや滅亡よりはマシに違いない。
 アッテンボローは、そのように主張するつもりであった―――キャゼルヌに、諭されるまでは。

 艦橋へ向かう途中、作戦会議室の手前の角に、彼の共犯者は腕組みして立っていた。視線が交わったが、互い間に満ちる空気は穏やかとは言い難い低気圧を孕んでいた。
「アッテンボロー中将、会議の前に、少しいいか」
 他人の耳目を憚る話題であることを裏付けるよう、キャゼルヌは人のいない一室へアッテンボローを問答無用で連行した。普段はこの部屋に詰めている幕僚員は全員がヤンの下へ集っていて戻る気配はなく、秘密裏に話をするのには手頃だったのである。
 スライドドアが軽やかな音を立てて密室を成立させると、キャゼルヌはすぐさまアッテンボローへ向き直って口を開いた。
 事態は一分一秒を争っている。自由惑星同盟軍は、いや、ヤン・ウェンリーは政府からの停戦命令をどう扱うかという決定をすぐにでも下さねばならないのだ。恐らく会議は二人が到着するのを待って始まるだろう。その貴重な時間を、キャゼルヌはアッテンボローとの会話に費やそうとしている。
 状況を鑑みれば、キャゼルヌの意図をアッテンボローが察することは難しくなかった。互いが相手の主張をある程度予想し、そしてヤンや幕僚の面前ではなく暗黙の内に意見を戦わせようとするのは、共犯者として双方が互いに責任があるという妙な連帯感があったからだろうか。しかし以前は心地よかったそれも、この時には有刺鉄線さながらに刺々しさを纏っていた。
 キャゼルヌは扉の前に立ち、苛立ちを隠しきれない表情のアッテンボローとの戦端を開いた。
「お前さん、ヤンの言い分は予想がついているんだろう?」
「ええ、恐らく停戦命令を受け入れるつもりなんじゃないかと、予想しています」
 キャゼルヌの声は普段のように穏やかな振りをして、しかし鋭く研ぎ澄まされていた。恐らく答えた彼の声音も同様だったろう。
「軍隊は文民統制ありき。市民を守るためのもの。ハイネセンを人質に脅されているなら、なおさら我らがヤン・ウェンリーは頷きますよ。たとえそれが、寄生虫みたいな政治家連中の保身に繋がることであろうとも」
「それで、お前さんはどうする?」
 白々しい問いだった。キャゼルヌは答を知りつつ、あえて彼の意思を確かめようとしている。その理由はといえば、アッテンボローを思い留まらせる為にと言う他ないだろう。
 だからこそ、アッテンボローは挑発的な光を鉄灰色の瞳にたたえ、年長の共犯者をひたと見据えた。
「もちろん、反対しますよ。今ここでローエングラムを叩いておかないで、どうします。奴を逃すか、俺たちが今から殺到してくる帝国軍の増援に魚のすり身のように潰されれば、同盟は滅亡までまっしぐら、無条件降伏の憂き目に遭うでしょう。この千載一遇のチャンスのために、俺たちはもう何日もバーミリオンで戦い続けていたんじゃありませんか。それを止めてしまえば、今日までに犠牲になった奴らが浮かばれませんよ」
 アッテンボローは、努めて平静を装った。感情に身を任す安楽は心地よいが、熱から醒めた後の己の姿は醜くて嫌になるものだ。そのように計算し、自分を取り繕えるほどには彼にもまだ理性が存在し、そして自身の正義を確信していた。
 キャゼルヌも沈着さを失ってはいなかった。挑むような若造の視線など痛くもかゆくもないといった表情で、アッテンボローに問いを重ねた。
「ハイネセンをどうする。包囲した首都を帝国軍が無傷のまま置いて撤退していくと、決まった訳じゃないだろう?」
「しかし、攻撃するとも決まった訳じゃない。あちら側にいるのは、かのロイエンタールとミッターマイヤー両提督と聞きます。ローエングラム候を失ったからといって、非人道的な行動に出るとは限らない。その手の陰謀を警戒すべき帝国印の剃刀は、幸いこちら側にいる。あの白い指揮艦もろとも沈めてしまえばいいんです」
 アッテンボローは手にしていた書類を、眼前で腕組みするキャゼルヌへ突きつけた。
「あのローエングラム候に、あちらさん風に言えばヴァルハラへ昇って頂いた後の作戦手順を、簡単にですが纏めてきました。充分に実行可能な案が練れたと思います。ハイネセンの危機は確かに憂慮すべき事態ですが、自由惑星同盟という民主主義の命運のためには……相応の配慮も必要でしょう」
「配慮ね。つまり、今の我々は恐れ多くも民主主義と惑星ハイネセンに暮らす市民の運命を断ずる立場にあると、アッテンボロー中将は認識している、間違いないか?」
「…ある意味では、その通りです、キャゼルヌ中将」
 口調を変えたキャゼルヌの一瞥は鋭く、けれども悲哀と苦慮に満ちていることにアッテンボローは返答しつつ気付いた。
 無精髭も、長時間に亘る戦闘で精彩を欠いた顔色であることも、互いに共通していた。しかし一方は苛立ちを抱え、もう一方は苦しみを抱いて立っている。
 キャゼルヌの真意は、もしかしたら自身のそれと近似しているのではないか。そのような思いが、彼の胸に湧きあがる。
 だが、そうならばなぜキャゼルヌはこのように、反対の論陣を布くように相対しているのだろうか。
 アッテンボローが答を見つけ出せぬまま、キャゼルヌは小さく頭を振った。
「ヤンは間違いなく、こう言うよ。軍人たる我々が、市民の判断を飛び越えて選択しうることなど、何もないと。あいつにとっては、それがいかに理不尽で馬鹿げたものであろうとも、市民の代表として選出された最高評議会の命令を拒絶する根拠にならないんだ。そうして、こうとも指摘するだろう、アッテンボロー中将、お前さんの立派な配慮は、単なる軍事的英雄ロマンチシズムだと」
 キャゼルヌの本心を探ろうという試案も忘れ、一瞬の憤怒とともに『違う』と叫び出したくなるのを、アッテンボローは腹に力を込めて必死で堪えなければならなかった。
 キャゼルヌの指摘に激情を覚えたのは、なぜか。
 本当にロマンチシズムとは違うのか。図星ではないのか。
 アッテンボローは唇を引き結び、拳を握りしめた。どこまでも冷静なキャゼルヌの指摘を完全に否定することが可能かといえば、恐らく彼にはできなかったろうから。
 運命を左右できるという救世主のごとき立場は、いかにも甘美だった。そして家族を犠牲にしても同盟の未来を救うのだという思考が、彼の中で行われなかったと問われれば、否という他ないのだ。
 なりたくてなった訳ではないが、アッテンボローは軍人だった。常日頃から軍の体制を批判してみせても、彼には彼なりに軍人として生計を立てている矜持があった。おまけに同盟軍史上最年少の将官にもなり仰せ、有頂天とは言わずとも、祖国を一丁前に背負った気でいた。それをロマンチシズムと言わずして、何というのだろう。
(何のために、戦っている)
 その問いが、彼の脳内で明滅している。
「確かに、この十日間以上の戦いで何十万と知れぬ兵士が死んだ。だが彼らはみな軍人であって、民間人ではない。政府にとって、軍にとって、そして民主主義にとって、民間人の生存は軍人のそれより優先する。残念ながらな。なあ、アッテンボロー、おこがましいかもしれないが俺はお前さんの抱いてるだろう、ヤンに対するもどかしさや、能無しの政府や畜生みたいなトリューニヒトへの怒りも理解出来る。俺の中にも、そういった気持ちはあるからだ」
 俯いたアッテンボローの視界に、キャゼルヌの拳が映った。それは彼と同じように強く結ばれていて、そこに平静に見えるキャゼルヌの葛藤が表されていた。
 キャゼルヌは一旦言葉を切り、そして深く息を吸い込んで肺を空気で満たしたのち、溜息をつくがごとく内心を吐露した。
「正直に言えば、ヤンがローエングラム候を撃ち落としてくれれば良いと、俺も思う。恐らくそれで、自由惑星同盟の存続は叶うんだ。俺たちがヤンを担ぎ上げようと決めたのは、戦争を終わらせるため、ひいては自由惑星同盟を宇宙から消滅させないためだった。俺は官僚畑出身だから、理念が実際の政治に道を譲ることがあるということも知っている。だから、今ここでヤンが一瞬だけ文民統制の原則に目を瞑れば、今後はどうにか明るい道が開けると計算することも出来る。お前さんにはロマンチシズムといったが、その道は充分に実益を伴ってもいる。損得勘定から考えても、このバーミリオンで支払った軍人ではあるが市民の一員でもあった人命の犠牲に相応しい対価が、ローエングラム候を落とすことで得られるはずだし、この選択を考慮すべきなんだ」
「それなら!」
 勢い込んで食ってかかろうとするアッテンボローを掌を上げて遮ったキャゼルヌは、そのまま深い思慮の込められた言葉を一息に紡ぐ。
「だが、俺たちが担いだヤンは違う。奴は政治的な勘定ができたとしても、愚直なまでに民主主義の理念を優先するんだ。それが俺たちが担いだヤン・ウェンリーという人間だよ。違うか? ヤンはその判断を持って、俺たちに民主主義の個人の尊厳を見せてつけてくれてるんだよ。奴はいつでもシンプルだ。個人が民主主義の原子核って思ってるからな、個人を守ることが看板を守ると信じている。恐らくその個人の中には、自分自身も含まれているはずだ。ヤンは自分のその主張を曲げないために、戦っている。それこそ個人の尊厳を守ることだとな。そして問うんだ。お前は何のために戦っているんだ、と」
「俺は…」
 言うべき言葉を見つけられず、アッテンボローは奥歯を噛み締めたまま纏まらぬ思考をめぐらせていた。
 家族の笑顔がまず浮かび、次いで眼前のキャゼルヌの顔を見て、ヤンやポプランといった親しい僚友たちを思い浮かべた。自由惑星同盟の未来や民主主義に顔はなかったが、モントバレーの風景や帝国軍に踏みにじられる自身や人々の姿が思い起こされた。
 わからなかった。彼の中に浮かんだものは、どれも選ぶことの出来ないほど大切なもののように、あるいは耐え難い未来に思われた。
「一朝一夕に答が出る事じゃない。人それぞれの戦う動機があるだろう。だからそれは、今ここで答えなくてもいい。それはともかく、俺はヤンが自分の考えを変えないことは、既に確信しているんだ」
 キャゼルヌは立ち尽くすアッテンボローの肩を掴んだ。それは年若い後輩を励ますようで優しくもあり、そして現実を見よと迫る厳しい手だった。
「俺がお前にこんなことを言うのはだ、ヤンよりもアッテンボロー、お前の方が器用な人間だと思っているからだ。ヤンは、確かに偉大な天才かもしれない。後世の歴史に名を残すような傑物だろう。だがそれは、戦争という限られた分野でのことだ。政治とか権力とかいったものに、あいつは嫌悪感を抱いている。いくら諭して政治的な論拠や利点を並べ立てても、あいつは絶対に頷かないんだ。民主主義理念を信奉し、それを曲げることを厭う。それがあいつの美点であり、そして欠点であることは間違いない。考えてもみてくれ、お前が仮にヤンの決定に真っ向から反対して、物別れに終わったらどうする。お前が退かなければ、ここでのお前とヤンの決裂は一生つきまとう傷になるぞ。俺は、そんなお前達を見たくない」
 力を込めて握られた肩が痛んだが、アッテンボローはキャゼルヌの不意の一撃に呼吸を忘れそうになるほど衝撃を受けていた。
 なぜだろうか、アッテンボローは自身とヤンの意見が不一致に終わることを、万に一つも考えてはいなかった。恐らくヤンはアッテンボローと正反対の結論を下す、そのように予想していたというのに、説得すればどうにかなると彼はどこかで信じていたのだ。これまでがそうであったように、アッテンボローは親愛なる先輩と同じ道行きを辿るのだと、楽観的に信じていたのだ。
 しかしキャゼルヌの発言に考えてみれば、事態はそのように簡単に収まる筈がなかった。もしもアッテンボローが徹底抗戦を唱えて折れなければ、ヤンは彼を上官抗命の罪をもってシェーンコップあたりにでも捕えさせ、営倉に軟禁するだろう。そして艦隊総司令官と分艦隊司令官の不和、いや、ヤン・ウェンリーとその腹心の部下の決裂が表沙汰になれば、兵士の中に確実にヤン・ウェンリーへの不信感を植え付けることになるだろう。アッテンボローと同様の考えを抱いている兵士は、多くいる。バーミリオンでの苦労の対価をローエングラム候の首で購うことを目的として、彼らは戦ってきたのだ。
「この先どうなるかは判らんが、もしもヤンが停戦命令を受諾した後に同盟が帝国の属領となっても、何らかの形で帝国軍の統治に反対する気運は残るだろう。アーレ・ハイネセンがそうであったように、逆境の中でも民主主義は存続しうる。俺たちが信じていれば。そして俺たちが改めて自由の旗を立てようとする際には、きっとヤン・ウェンリーを旗印に戦うことになるはずだ。だがそこにお前さんとヤンの不和の種があれば、それこそ民主主義存続に差し支える結果になるんじゃないか? ヤン・ウェンリー閥ならぬ、ダスティ・アッテンボロー閥を、この先お前は作ろうと思うのか? ここでアッテンボロー、お前がヤンの命令に従わないと言うことは、お前とヤンの道は分かたれるということなんだ」
 顔を上げると、キャゼルヌの苦渋に満ちた表情が眼前にある。アッテンボローは、なぜキャゼルヌが最初から悲痛な色をその目に宿していたかを知った。
「俺は軍人で、確かに同盟の未来を憂えている。だけどな、俺は軍人である前にヤンや、そしてお前の友人でありたいと思う。これは俺のエゴかもしれないが、可能なら俺はお前やヤンと一緒に同じ旗の下に居たいと思うんだ。アッテンボロー、お前には酷なことを言っていると判っている。お前の意思を押し潰そうとしている。それでも、俺はお前をこうして説得するしかないんだ」
 キャゼルヌの必死の気迫が、アッテンボローの決心を揺るがせていた。
 銀河帝国に膝を突き、理不尽な政府の命令を呑むことより、キャゼルヌの言葉にあったヤンやキャゼルヌとの訣別という未来の方が、アッテンボローには耐え難かった。ヤンの麾下を去って、何をするか。そう自分に問うても答が出なかった。なぜなら、彼の考える未来には常にヤンの姿があったからだ。
 反論できず沈黙したアッテンボローと、決断を迫るキャゼルヌ。その二人の間で、通信機が叫びを上げた。恐らくは会議への遅参を責め立てるものだろう。
「時間切れだ」
 呟いたキャゼルヌはアッテンボローの肩から手を放し、背後の扉の開閉パネルを操作した。開いた扉の向こう側へ、アッテンボローを振り返ることなくキャゼルヌは歩き出す。
「そういうわけでな、アッテンボロー、俺はこうしてお前に俺の頼みを伝えた。後はお前さんが決めてくれ。どうなろうとも、俺は文句は言わん。自分がお前に無理強いをしようとしていることを、判っているからな」
 目の前で瞬時に閉ざされたドアが、アッテンボローとキャゼルヌを隔てた。
 微弱な音さえ聞こえぬ静寂の中、彼は叫んだ。
「畜生、どうしろって言うんだ! くそったれ!」
 物言わぬ扉を、アッテンボローは混沌とした感情を晴らそうとするように力一杯殴りつけた。だが気分は相変わらずなまま、彼は熱を持った拳を抱えてキャゼルヌの後を追うしかなかった。時が、迫っていた。
 そして、彼は選択したのだった。ヤンに従う道を。

 今も判らない。どちらが良かったのだろう。何が正しかったのだろう。
 何のために、自分は戦っていたのだろう。
 問うても答は出ない。
「閣下、お手元が危ないですよ」
「…ああ」
 ラオに言われ、彼は冷めて油の浮いたコーヒーの満たされたカップに、無意識に圧力を加えていたことに気付く。カップが陶器でなく耐久性の低いものであったなら、握りつぶして液体を溢れさせているところだった。少しは立派なカップを使える、将官という立場の恩恵に預かったと言うべきだろうか。
 だが、その自由惑星同盟軍中将という立場も、もはや無用の長物に過ぎなかった。彼は既に軍を退くことを心に決めていた――恐らくヤン・ウェンリーも同じ道を選ぶだろう。アッテンボローは、ヤンがそうするからといって同道の人となるつもりはなかった。しかし、この先に自由惑星同盟が、そして同盟軍を考慮してみれば自身の尊厳を優先するためには軍服を脱ぐ方が良いと判断したのだ。
 今後、自由惑星同盟は実質的に銀河帝国の属領となる。その際、これまでのような軍備を認められるかと考えれば、否という他ない。銀河帝国のあるオーディン星系は遥か一万光年を越えた距離にあり、安定的統治のためには暴動や叛乱の術を奪っておく必要があると新たな支配者は思い至るだろう。その結果、自由惑星同盟軍はほぼ解体されることは明白だった。
 万に一つもないだろうが、仮に現状の体制のまま同盟軍が保存されたとしても、トップには帝国に従順な犬が据えられ、帝国軍による強い監視と圧力に晒されるに違いなかった。犬が保身に走るならば、同盟軍は帝国側の監視よりも内部の自己規制の戒めに陥れられる。そうして兵士達は軍への忠誠や従順さを失い、結果的に弱体化が促進される。
 そしていずれの場合にも、ヤンのシンパ、直属の部下であると目されていたアッテンボローの席があるかといえば、きっとハイネセンから遠く離れた辺境の補給基地かどこかに用意された、尻の寒い席だろうことは想像がつく。
 アッテンボローはカップをデスクに延ばした脚から離れた位置に置き、メインスクリーンに輝く帝国艦隊と、そして漂う無益な戦闘によって生産された無数の漂流物を眺めた。そのダストたちは、恒星バーミリオンの弱い光を受けて、憐れなほどに儚い泡のように煌めいている。
 十日以上に及んだ決戦は、無益な戦いに違いなかった。もとより同盟政府が全面降伏を掲げたなら、バーミリオン会戦は行われなかっただろう。だが藻屑のように宇宙を浮遊する、かつては人だったものが元の形を取り戻すことは永遠にないのだ。
 ふと、彼は思い浮かんだ詩を口ずさんでいた。
『彼らはふたたび、笑い合う仲間たちと言葉を交わすこともなく、彼らはもう、我が家の団欒の食卓につくこともない。彼らは、日々を生きる我らの如き苦しみもなく、ただ、星の泡沫に眠る』
 ラオはいつも眠そうな重い眼の顔つきだが、彼の感傷的な声を聞いて今は少しだけ瞳の面積が増していた。まさか上官が詩を諳んじるなど、思っても見なかったという風情だ。らしくもない真似をしでかしたと、確かに彼自身も思う。
 アッテンボローは、もう暫くすれば別れることになるだろう白い五芒星を染め抜いたベレー帽を脱ぎながら、デスクから脚を降ろして立ち上がる。
 アムリッツァの慰霊祭の時にもこれを思い浮かべたのだと、アッテンボローは数年前の自分を思った。
 あの時の自分は、今のような状況を想像もしていなかった。躊躇いや恐れはあったが、迷いはなかった。ヤンと違う道を選ぶなど、思案に上がることはなかった。
 自由惑星同盟は、ヤンは、そして自分は、どこへ向かっているのだろう。
 アッテンボローは大画面に散らばった星々と、そして戦場の残滓に向かって背筋を伸ばし、顎を引いた。指先を揃えた右腕を上げ、哀悼を表す敬礼を捧げる。
 何のために。その疑問を抱いたまま。

星に捧ぐ






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*作中の詩は、Laurence Binyon"For the Fallen"を一部引用し、改変したものを訳したものです